加奈子の毎日は、爆音量の目覚ましの音で始まる。
お洒落系の洋楽で静かな朝を迎えるのが理想ではあるが、現実問題そんなものでは確実に起きれず遅刻してしまう。
遅刻よりも何より、ヘアセットを念入りにする時間がなくなるのは死活問題である。
洗面所で鏡に映る自分のパサついたボサボサ頭と曇った表情を見る度に、憂鬱な気分になるのが日課のようになっていることが、また加奈子のテンションを下げさせるのであった。
「うーん…はぁ…」
と大きな溜息をついてから、外見の大工事に取り掛かる。
顔は中の上くらいではないかと思ってはいる。あくまでも自称だが…。
30歳を過ぎてからというもの、急激にお肌のハリもなくなりつつある。
特に髪の毛は繰り返されたカラーリングとパーマで加奈子のセミロングは、毛先のダメージが著しく、艶もなければ、まとまりもなく、いかにも手間を惜しんでいます!といった哀しい姿になってしまった。
それでも、大手企業の営業職として仕事のできる女を装うために、何とかしなければならない。
寝ぐせ直しスプレーで髪を濡らし、少々お高いトリートメントオイルをなじませる。
ドライヤーで乾かし、ブローした後はストレートアイロンで、それらしく整える。
工夫しようにも、冒険をするのが怖いため、毎度同じ毛先を少し内巻に仕上げるのが精一杯である。
決して特別、男ウケするような髪型ではないのは、十分承知の上だ。
「とりあえずはこれでOK」
と思った瞬間、ふと見た鏡に白髪をまた発見してしまい、気づかなけれは良かったと、少し苛立ちながら迷いもなく抜いた。
仕事は出来るほうだ。上司の評価も割合と良く、信頼されていると感じる。
キャリアも積み、営業成績も悪くはない。
加奈子の上司でもある、営業部の佐竹部長は50歳を少し越えている。
「若い人はやっぱりお洒落さんだねぇ」
と、何かと褒めてはくれるが正直それ程嬉しくはないのだ。おじさんからしたら、30代の女なんて殆ど皆、若くてキラキラしていると思うのだろう。
愛想笑いで
「そんな事はないですよぉ。でもありがとうございます。」
と軽く返しておく。
最近は仕事の充実感を感じつつも、彼氏もいない、ましてや結婚なんて一体いつになったら出来るのか、マンションでも買い、ペットと一緒に暮らそうか?などと考えては虚しくなる。
親しくしている同僚の男性はいる。
田沼という同期の独身である。不細工ではないが所謂、優しい人で終わるタイプの人間。
しかし、加奈子にとっては唯一話しやすい気の合う異性である。
トキメキポイントは少ないが、本当はこういう人がいいのか…などと、ふと思ってみたりするものの、もう少し優良物件があるのでは?という邪念も湧いてくる。
同じ部署に職場の先輩である佐和子さんがいる。
42歳、既婚で飛びぬけた美人ではないが可愛らしい雰囲気と清潔感、少しの色気があり、憧れの存在でもある。他のスタッフからも一目置かれている。
何よりも、髪が綺麗だ。艶があり、凝ったヘアスタイルではないが、少し暗めのチョコレートブラウン色で、丸みを帯びたショートボブのシルエットと首筋に少し掛かる後れ毛が、顔立ちに似合っているせいだろうか。
それだけで美しい雰囲気を醸し出している。
仕事もきちんと出来る人であり、あまり生活感を感じさせない。
佐和子さんを見ていると
「自分がこのくらいの年齢になった時、こんな風になれているだろうか?
いやいや無理、あり得ない。こういう人は持って生まれたものがきっと何か違うんだ。」
と決めつけては落ち込むのである。
今日も残業だ。営業成績は伸びているが、仕事量もその分だけ増えている。
夕飯は、デスクのPCに向かいながら、外回りの帰りに買っておいたおにぎりと野菜ジュース。
飲み込むように、胃の中に放り込んだ。
死んだ魚のような眼をしながら、キーボードを打ち込んでいた。
背後に人の気配を感じた。
「あー、疲れた。俺たち本当、仕事人間だな。お疲れっ。」
田沼が突っ立っていた。
振り向き目が合うと、田沼は急に吹き出した。
「はぁ?何?」
と、怪訝そうな顔で眉をしかめる加奈子に
「お前、ご飯粒つけてんじゃねぇよ。うけるわ。」
と言われ、咄嗟に米粒を拭い、何もなかったかのように振舞おうと思ったが、赤面しているのは自分でも分かっていた。
そんな加奈子の事は特に気にした様子もなく
「俺、先に帰るわ。あんまり無理すんなよ。
今度さ、息抜きに一緒に飲みにでも行くか?また連絡する。」
そう一方的に言い放ち、田沼は帰った。
明日はようやく日曜日だ。かと言って何も予定はないが。
そう思いながら、加奈子は缶ビールを片手にスマホをひたすら眺めていた。
『大人女子 綺麗の秘密』『モテる女はこれで決まる』などのワードで検索をかけては、いつものように現実逃避をしていた。
しかし、心のどこかで先日、田沼の飲みの誘いを意識していた。
ふと、洗面所に向かい鏡に映る自分をまじまじと見つめた。
しばらく美容室に行くのをサボっていた。
「久しぶりにヘアスタイルを変えて、カラーもついでにして、イメチェンしてみようかな?」
そんな風に思い立った自分が、少し不思議だった。
田沼は気心知れた同僚だが、一応は男だ。嫌いでもない。
ちょっとは綺麗に見せたいと思ったのかもしれない。
早速、ネットで口コミの良い美容室を予約した。気のせいか、心が高揚しているような気がした。
予約時間に美容室に着くと、思ったよりこじんまりとした、しかしお洒落で落ち着く雰囲気といい香りがした。
担当するスタイリストと挨拶をかわし、どんな風になりたいかというカウンセリングをした。
かなり丁寧に話を聞いてくれた上で
「お顔や頭の形、生え際の癖なんかで、似合うヘアスタイルって随分と変わるんですよね。
僕の提案なのですが、ダメージ部分をカットして、軽めのマッシュヘアで少し可愛らしさを出して、チョコレートブラウンにバイオレットを入れて、大人っぽさというか色っぽさも出してみる。
そんな感じはいかがですか?」
と勧められた。
何となく印象が良かったので、この人の言う通りお任せしてみようと思った。
「お願いします。」
スマホを弄りながらも、どんな風になっていくのか不安と期待で心が一杯で、画面の内容は殆ど頭に入っていなかった。
いよいよ最終段階に入り、後は乾かしてブローのみである。
その時点で、かなり雰囲気が変わったのが分かった。
「あれ?これいいかも。」
そんな気持ちで仕上がりを待った。
「はい。お疲れ様でした。いかがですか?」
と言われ、顔をあげた。
大きな鏡の中には、これが自分か?と思うような新鮮な嬉しさが込み上げてきた。
自然と口角が上がり、姿勢がスッと伸びていることに気付き、少し笑ってしまった。
帰宅後、加奈子はいつもの洗面台に向かい、鏡をまじまじと見た。
誰もいない事をいいことに、ちょっと気取って可愛い表情を作ってみたりした。
月曜日、職場ですれ違った田沼に
「おっ!何か感じ変わったな。」
と言われた。
「うん、少しイメチェンしてみた。」
あまり感情を表に出さないように、わざと大した事ではないような言い方で返事をした。
その週の土曜日、田沼と会社近くの居酒屋へ飲みに行った。
「お疲れぇ~!」
とジョッキで乾杯をしてビールを流し込んだ。
仕事の愚痴を一通り話し盛り上がった。やはり気心知れた田沼と話すのは楽しい。
酔いも回った時
「お前、本当に何か変わったな。うん…変わったよ。」
田沼が赤くなった顔で伏目がちにボソッとつぶやいた。
「そお?綺麗になって驚いたでしょ?あーあ、モテちゃうな。」
加奈子はふざけて言ってみた。
「いや、うん…。なんか、いいよ。お前に似合ってる。正直ドキッとした。俺酔ってんな。」
加奈子は真顔でいう田沼の顔を、ちゃんと見れずに照れくさくて目が泳いでしまった。
あれから、以前と変わらず仕事漬けの忙しい毎日を送っている。
哀しいかな、もちろん彼氏がいないのも同じ。
ただ、少し変わったこともある。
女としちょっぴり自信を持てるようになった気がする。
周囲の目も気になることは、あまりなくなった。
田沼とも以前より、食事や飲みに行く回数が増えた。
人間とは不思議なものだ。ほんの少しの事で心までが晴れやかにもなる。
毎朝、髪をセットして仕事に向かう足取りが少し軽くなっている。
加奈子は今日も、綺麗にセットされたふわっとした艶のあるマッシュヘアを風になびかせながら職場へ向かうのであった。
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・ペンネーム
働く悪あがきアラサー女子